「受診前需要」の定義

安心マップでは、「受診前需要」を次のように定義しています。

受診前需要(Pre-visit Demand)とは、利用者が何らかの体調不良や健康上の不安を感じてから、実際に医療機関を受診する(あるいは受診しないという判断に至る)までの間に発生している医療ニーズのことです。

具体的には、以下のような状況が「受診前需要」が発生している状態です。

  • 夜間に子どもが発熱し、救急車を呼ぶほどではないが受診すべきか迷っている状態
  • 症状を検索しているが、内科・外科・耳鼻科など、どの診療科に行くべきかわからない状態
  • #71191に電話すべきか、それとも朝まで様子を見るべきか、判断できない状態
  • かかりつけ医が休診で、代わりの受診先をどう探せばよいか判断がつかない状態

これらのニーズは、医療機関への到達によって初めて記録・把握される従来のデータ収集では、原理的に捉えることができません。

既存の医療データとの違い

日本の医療データ基盤は、いずれも「医療機関への到達後」に発生する情報を収集する設計になっています。代表的なデータ源として、以下が挙げられます。

  • レセプトデータ — 診療報酬請求のためのデータ。実際に保険診療が行われた後に生成されます。
  • 救急搬送記録 — 救急車が出動・搬送した後に記録されます。「搬送前の迷い」は捉えられません。
  • 患者調査 — 厚生労働省が実施する調査ですが、実際に受療した患者が対象です。
  • DPC データ — 特定機能病院・急性期病院の入院データですが、やはり入院後の記録です。

受診前の段階で何が起きているか、すなわち「誰が・どこで・どのような症状で・どのような選択肢を検討しているか」は、これまで構造的に可視化されてきませんでした。この空白領域こそが「受診前需要」という概念が照らし出す領域です。

なぜ今この概念が重要か

受診前需要の可視化が求められる背景には、3つの構造的課題があります。

1. 救急車出動件数の増加と現場到着時間の延伸

総務省消防庁の公表データによれば、救急車の出動件数は増加傾向にあり、現場への平均到着時間も延伸しています2。真に緊急性の高い患者への対応時間を確保するためにも、受診前段階での適切な振り分けが必要です。

2. 救命救急センターへの軽症患者集中

三次救急医療施設では、本来その機能が必要とされない軽症患者の受診が増加しているという課題が全国的に報告されています。一例として、茨城県の救命救急センターである土浦協同病院は、令和2年10月より「時間外選定療養費」を導入しています。その理由として同病院は「夜間・休日に緊急性を認めない患者が多く、重症患者への対応に支障が出ているため」と公式サイト上で説明しています3。これは、受診判断の支援が地域医療の現場で強く求められていることを示す事例です。

3. #7119・#8000等の電話相談窓口の普及と、その限界

令和7年7月時点で、救急安心センター事業(#7119)は全国41地域で実施されています4。茨城県では24時間365日体制で運用されており、適切な受診先の判断を専門の相談員・看護師が支援しています。しかし、現状の相談手段はほぼ電話のみです。「電話をするほど深刻かわからない」「子どもが寝ていて大きな声で話せない」など、電話相談が使いにくい状況も少なくなく、Webを通じた意思決定支援の需要は高いと考えられます。

受診前需要を可視化することで何が分かるか

受診前需要データが整備されることで、以下のような粒度・視点の情報が得られる可能性があります。

  • 地域×時間帯×症状の需要密度 — どの地域で、いつ、どのような症状の相談が発生しているかを500mメッシュで把握できます。
  • 振り分けパターンの分析 — 119番・#7119・オンライン診療・対面受診のどこに振り分けられているかを地域・時間帯で分析できます。
  • 「検索したが行動に至らなかった人」の把握 — 従来まったく捉えられていなかった「受診を迷ったが諦めた」層の存在を推計できます。
  • 医療空白地帯の特定 — 需要密度が高いにもかかわらず、近接する医療機関が少ない地域を特定できます。

これらのデータは、行政の医療政策立案、医師会による地域連携計画の策定、医療機関の経営判断など、幅広い意思決定の基盤となり得ます。

海外における類似概念

受診前需要の概念に類するアプローチは、海外でも見られます。英国のNHS 111は電話・オンライン双方でのトリアージ相談を受け付けており、相談データの蓄積が医療需要予測に活用されています。米国ではテレヘルスプラットフォームが「受診相談」段階からのデータを蓄積し、地域の医療アクセス解析に応用する動きが進んでいます。日本においては、Web上での受診前行動データを構造的に収集・分析するインフラはまだ限定的です。

安心マップの取り組み

安心マップは、市民向けサービス(www.anshinmap.co.jp)を通じて収集される匿名の行動データをもとに、受診前需要の可視化を試みています。利用者の同意のもと、検索位置を500mメッシュに匿名化したうえで需要密度マップを生成し、症状カテゴリ別の検索推移や、119番・病院・オンライン診療への振り分け比率を時間帯・地域別に分析する基盤を構築しています。

茨城県土浦市での実証実験を準備中です。医師会・行政・大学研究者との連携のもと、受診前需要データの公衆衛生・医療政策への応用可能性を検証していきます。

出典

参考・引用

  1. #7119(救急安心センター事業) — 総務省消防庁「救急安心センター事業(#7119)について」
  2. 救急出動件数・搬送人員の推移 — 総務省消防庁「救急救助の現況」
  3. 土浦協同病院 時間外選定療養費 — 土浦協同病院「救急受診を希望される方へ」
  4. #7119の実施状況 — 総務省消防庁(令和7年7月時点で全国41地域)